人間を養う

人間を養う  
今年も12月半ばです。年が明けてしばらくすると中学受験シーズンです。私にとって中学受験は、思い出深い経験でした。  

小学校4年生のときから通っていた学習塾の日曜教室というのがあり、毎週日曜日、テキストの予習範囲の内容のテストがありました。その頃はやることに計画性が非常に乏しかった私は、土曜日の夜に算数と理科を必死で一夜漬けしました。父が仕事から帰ると、つきっきりで教えてくれることも多かったです。私は根はかなりの負けず嫌いで、特に、大好きな算数で分からない問題があって、解説を読んでも理解できないときなど、机に向かいながら悔し涙を流すほどでした。そういう時に父がいると、涙を流し続ける私の横で、父が問題と解説に目を通し始めます。すると、恐らく私と同じく我の強い父が、「こんな問題を解いていたら、小学生の時に養うべき算数の感性が駄目になるから、中学受験をやめなさい。」と、怒って、ほぼ怒鳴り始めます。そこへ、今度は母が来て、父の話を聞くと、「みんながやっていることなんだから、やるものでしょ。」と反論し、だんだんと、二人は言い合いに白熱していきます。私は、悔し涙が止まったわけではないし、慰めたり励ましたりしてくれるのではと期待していた両親は、私のためなのか何なのかよくわからない議論に一生懸命で、私を構ってくれる気配は全くありません。私と両親が、そんな土曜日の夜をどう締めくくったのかはあまり覚えていません。それでも、そういうことが2,3回あり、小学生ながらに、精神的に辛いと思ったのを覚えています。  

ただ、こういうことがあって、私は、与えられたことを頑張ってこなしたからといって、必ずしもプラスになるとは限らないという考えが、いつも頭のどこかにあるようになったのではと思います。その後、中学に入り、中高一貫で受験を意識する必要がなかったこともあり、自分がちょっとやってみて、面白いと思えそうなものを中心に学習をしました。結果、学校の成績は、体調不良などの特段の理由がなくても、学習好きの割には、あまりよくありませんでした。でも、今でも学習を楽しめることが私にとっての大きな財産です。英語の資格試験などでは、結果を出すために、自分が好きな内容だけではなく、求められる内容もこなすようにしています。ただ、それは社会への適応のための努力と、だいたい割り切っています。  

学歴にしても、資格試験にしても、高評価を得ても、社会の物差しで評価されたにすぎず、自分にとって、どれだけ意義や価値のあることをしたかは別問題です。むしろ、私は、社会で評価されることを意識しすぎると、社会に媚びる人間になり、自分の好奇心を台無しにしてしまいそうで怖いくらいです。いつも、自分 の素直な気持ちを大事にしたいと思っている私にとって、自分の好奇心をむやみに損なうようなこともしたくありません。  

1月に長男を出産して子育てに取り組み、精神的にも、体力的にも厳しいことも多々ありました。でも、そういうときであっても、私の乗り切り方の正攻法は、たとえどんなにささやかであっても、自分にとっての心からの喜びや楽しみを見つけることです。念願の初めての子供の寝顔や笑顔が、どんなに可愛らしかったり無邪気であったりしても、それだけでは立ち行かなくなりそうな時もありました。そういう時に私を力づけたのは、主人との何気ない会話だったり、私を知って下さっている方々の何気ない一言だったり、朝食の時に何気なく手を伸ばした好物だったり、何気なく聞き流していたお気に入りの音楽だったりしたようです。  

よく、「頑張る自分をほめる」という言葉を聞きますが、私はあまり好きではありません。自分の感情を我慢して抑え込んで頑張ることを、美徳のように謳いあげてしまう気がするからです。辛い、苦しい、嫌だというような苦々しい感情も、自分の明日のための大事な手がかりではないでしょうか。オードリー・ヘプバーンの言葉に、「年を取ると、人は自分に二つの手があることに気づきます。一つは自分を助ける手、そしてもう一つは他人を助ける手。」というのがあります。かなり恣意的な解釈のようなものですが、私はこの言葉に、「自分を幸せにする積極的努力をしていて初めて、人は純粋に他人の幸せに寄与する援助の手を差し伸べられる。」ということを思い起こします。  

今日という日は、誰にとっても決して戻ることができない大事な一日です。子育て中の母親も、今は思い通りに色々とできなくても、少しずつでも、ささやかながらでも、自分の夢を実現していきたいという気持ちをつなぐ努力も必要なのではないでしょうか。私にとっては、そういう努力を心がけることが、子育てという仕事に対する誠意でもあり、親子であれ、自分の子供に対する人間同士としての謙虚さのつもりです。  

以前に見た教育討論番組で、創造性について、一人の出演者が、「創造性は大学などの教育の場で培われるのか、それとも社会で培われるのか。」というようなことを言っていました。私には、この方の発言の意図がわかりませんでした。創造性というのは、多少、特異であっても、個人の欲求を建設的な努力をもって実現しようとすることとほぼ同義と、私は捉えています。教育の場でも、いわゆる社会でも、個人の率直な欲求やそれに基づく努力に寛容あると同時に好意的であってこそ、きっとこの番組のテーマの一つであった、創造性豊かな日本というのにつながるのではないでしょうか。  

夢というのは、子供や若者だけのものではないはずです。もし、夢を追うことをやめた大人が夢を追いなさいと言ったとして、それは説得力があるのでしょうか。人間にとって、最も基本的で大事な夢は、自分の明日を自分で見つけていくことだと私は考えています。今日の喜怒哀楽を、自分の笑顔につなげていけるかどうかはいつでも自分次第。少なくとも、私は、自分の心にそう刻んで生きていけたらと思っています。