私の哲学と学習論


私の実家の親戚に、国立大学の農学分野の名誉教授のおじさんがいます。私と私の兄弟の間では、特に説教好きで有名です。ありがたいことも色々と言ってくれるけれど、話のボリュームが凄すぎて、なかなか話をしてくれる時には素直にありがとうと思うことはできません。それでも、おじさんが言ってくれたいくつかの言葉は私の心に残っていて、感謝を感じているところもあります。そういう言葉の一つは、「自分の哲学を持たないといけない」です。聴かされた時には、高校の定期試験の課題図書だったソフィーの世界にあった「人は哲学を学び自由を得る」が思い浮かびましたが、「私自身でそんな小難しいものを編み出すことはないかなぁ」と思いました。でも、今、おぼろげながらも、私自身の哲学というものがある程度あります。 


私の哲学の根幹になっているのは「食べることが好きな人は生きることが好きな人」という、高校生時代に私の目に留まった一文です。確か小麦畑を背景に腕組みをしたイタリア人シェフの写真が大きく載っていて、その人の言葉として紹介されていました。私なりのその言葉の解釈を言えば、「どんなときでも、口にしたものの味を楽しむゆとりを忘れない人は、人生で色んな感情を味わいながら、自分の人生を歩んでいく面白さを知っている人」です。 


この一文に出会っていたからか、私は味覚の理屈を心の問題の議論にあてはめたくなるところがあるようです。だいぶ以前のNHKスペシャルで、ジャンクフードなどの化学調味料による強烈な味は、味覚を麻痺させるという内容を扱っていました。強烈な味が脳に過度に強い刺激を与えることになり、次第に、どんどんそういう強い味を味あわないと、満足できなくなるそうです。ジャンクフードのなどの強烈な味に魅かれているようで、実際にはただの中毒症状で求めるだけということになるのです。これは、人間本来の「食べたいものを食べれば、健康的な体づくりにつながる」というメカニズムに支障をきたすことにもつながり得るはずです。 


ここで、日本の「笑う門には福来る」という言葉を持ち出して、心の話題にもっていきたいと思います。この言葉の意味するところは、決して、「作り笑い中毒にでもなって、自分は幸せだと言い張って、自分は幸せだと自負すること」などということではないと私は考えています。きっと、「自分のいい笑顔を少しでもたくさん見つけたいと心がけていたなら、自分にとっての幸せな日々を作り出すことにつながる」ということではないでしょうか。私の哲学というものの基本は、自分自身がそうやって幸せを求めるための心を培いながら、なおかつ他人のそのような心も損なわなずに生きていくための作法です。 


これを確かなものにしていくための手段の一つとして、私は学ぶという行為をあげます。日本ではゆとり教育からまた次の新しい教育スローガンとでもいうものを模索しつつあります。私が受験勉強というものの一番の弊害をあげるなら、それは自分の興味や好奇心をかまうことなく学習することを礼賛しかねないことです。 


学ぶというのは、本来、自分の人生を賢く生き抜く知恵にもなり得る知識を吸収したり、自分の人生の一歩一歩を踏み出すエネルギーともなり得る感動を味わう行為のように私は考えています。それがたとえ、一時的にのつもりであれ、学校受験や資格試験というものの結果至上主義に走り、自分の心の躍動を求めることもなく学習するようになってしまったのなら、それは、その人の人生の大きな損失ともなるのではないでしょうか。得られた結果で、一時的には、ある種の人生の社会的保障とでもいうものが得られるかもしれません。けれど、その人は、自分が心から求める人生を一歩一歩踏み出すことを忘れてしまうことにもなり得るのではと思います。


 2020年東京オリンピックも意識して、日本で英語熱が高まっているように感じます。よく、「英語ペラペラ」という言葉が目につきます。私はそこに、日本人の、英語を自信をもって話せるようになることへの願望と、生き生きと自分を表現することへの願望が混在しているように推察しています。生き生きと世界の人とコミュニケーションを図る日本人を輩出していくには、日本の教育の目指すものを根本から問い直す必要があるのではないでしょうか。 


私は学習に関してはかなり恵まれた環境に育ってきたと思っています。ですが、一方で、そのために付きまとわざるを得ない悩みも大きかったというのもまた、私が抱いている正直な思いです。今、自分が持っているもの、持っていないものを見極めながら、このあたりで、ちょっと社会に何かしらの還元でもできないものかと、目下、思案中です。