その先の自分へ

私はミッション系の中高に通っていたので、毎週一時間、宗教の授業がありました。高校二年生の時に、宗教の授業で配られたプリントに、「新興宗教を信じることは、行先のわからないバスに乗ることだ」というような一文が書かれていたのを、今でも記憶しています。ちょうど、サリン事件があって一年も経たない頃というのもあり、そのような何かの説明文がコピーされたプリントが授業で扱われたのだと思います。 


私は、どちらかというと宗教が好きな方じゃないかと思います。祈るという行為が、自分という一人の人間の奥底にあるような深い思いに至る機会になり得るように感じているからかもしれません。一方で、新興宗教に限らず、宗教というものが持ち合わせる危うさもあるように思っています。


 私が小学生の頃、はまりにはまって、世間ではあまり知られていない続編まで見つけ出して、何度か読み返しもしたジーン・ウェブスターあしながおじさん。その本編に、次のような内容があります。 


ジュディは、クリスマス前に、近所か何かの友達の家が、クリスマスのお祝いをする準備ができないことを知ります。母親は病で寝込んでいて、ジュディの友達である娘は、幼い兄妹達もいるけれど、貧しくて、お祝いのためのご馳走を用意する余裕がありません。それを見て、どうにかしてあげたくなったジュディは、あしながおじさんに手紙で、その家族にクリスマスのお祝いをさせてあげられるように助けてほしいと頼みます。すると、あしながおじさんは、ジュディの願いを聞き入れてくれて、家族はクリスマスをお祝いするためのおいしいものが沢山、並んだ食卓につけることになりました。その時、病で寝込んでいた母親は、クリスマスのお祝いを家族でできるようになったことを知るなり、その場で神様に感謝の祈りを捧げ始めます。それをジュディは次のようにあしながおじさんに報告しています。 「あなたの家族がクリスマスのお祝いをできることになったのは、私があしながおじさんにお願いして、そしてあしながおじさんがご馳走を用意してくれたからよ。あなたは、私とあしながおじさんにきちんとお礼を言わなくてはだめよと言ってあげたかったわ。」 細かいことなど、多少はもう私の記憶違いもあるかもしれませんが、私はジュディの言葉にも共感です。 


自分の目の前の現実問題を解決するのに、宗教は万能ではありませんし、むしろ、現実から離れることを促してしまいかねないことにも、注意を払わなくてはならないんじゃないかと考えます。 


ただ、このプリントの一文が私の記憶に残っているのは、もう一つに、何気なく、「人生の行先ってどこだろう?」という疑問を私に投げかけたようなところがあるからじゃないかと思います。ちょうど、この頃、数学そのものの解説はほとんどわからなっかったくらいなのに、その時の私にしてみれば、相当、頑張ってけっこう出席していた予備校の数学の授業がありました。後になって思い返すと、私はその先生が授業の合間、合間に時々、繰り広げるその先生の人生論のようなものにも、かなり魅かれていたんじゃないかと思います。その先生が、最後の授業で強く言い放った言葉は、確か、 「人生は遠くに行くことに意義がある。出会いを大切にしろ。」でした。 


今になって、はっきりわかり始めた気がするのですが、その先生の言った「遠く」というのは、決して、がむしゃらに達成しようと追い求める目標のようなものではないんだと思います。その先生が言った「遠く」というのは、きっと、少しずつでも、素直に自分と気持ちを分かち合える人との出会いを大切にしながら、少しずつでも叶えていく自分の夢を、むしろ示唆していたのではないかと思っています。 


大学受験の勉強に取り組んでいた頃、大学受験で華々しい結果を残した人たちの体験記集を読むと、多くの人が座右の銘に、 Where there is a will, there is a road. という言葉をあげていました。そういう体験記でよく目にしたからか、その頃の私にとってのこの言葉の解釈は、 意志があれば、そこに到達することができる でした。でも、この頃の私にとってのこの言葉の解釈は、 前に進もうという気持ちがあるのなら、道を見つけることができる です。 


私は、「私らしさ」という言葉を使うことはたぶん、あまりありません。「私らしさ」という言葉を用いたりすると、かえって、自分で自分を縛るようなことになってしまう気がするからです。自分の目の前に広がる光景を見据え続ける強さと、素直に感じ取る柔らかさを持ち合わせつつ、いつも、その先の自分を楽しみにしていられたらと思います。